ゲームの対価について考える

ゲームの「対価」とは(技術系のシバチョがコラムを書く)
ゲームの「対価」とは(ものくろライト -Ragnarok Online- Ver.2.1)


こんな興味深い記事を見つけた。詳しい内容はリンク先を読んでいただくとして、論旨を簡潔にまとめると「トータルのゲームの面白さは、なかなか事前の宣伝や雑誌では推し量れない。成功しているゲームは比較的導入で面白さを伝えることに成功している」といったところだろうか?
今回はこの問題を、作り手側からの視点に立って書いてみたい。


ゲームの面白さとは何だろう

ゲームの面白さというのは、実はゲームのジャンルや方向性によって多岐に渡るので一概には決めかねるが、私の個人的所感では大きく5つに大別できると思う。これは段階を踏んでおり、ステージが上がるごとに高度になり、また面白さが伝わりにくく、理解度に対するハードルも高くなっていく。

ステージ1 操作(操縦)する喜び
ステージ2 達成(クリア)する喜び
ステージ3 鑑賞する(読む)喜び
ステージ4 収集(コレクション)する喜び
ステージ5 コミュニケーション(交換)する喜び

任天堂……というか、宮本氏が中でもとりわけ拘っているのが「操作する喜び」である。彼の手がけたゲームは例外なく、ゲームの進行に関わらず適当に操作していて面白いし、「自分がこう動きたい」と考える微妙な操作にダイレクトに応えてくれる。自分の指先の延長上に主人公がいる感覚だ。
この面白さは言葉や文化、年齢性別をも超えた普遍的な喜びであり、極端な話、ゲームの内容を理解できない幼児ですら楽しめる。逆に、「達成する喜び」はクリアするための技術や経験が要求されるし、「鑑賞する喜び」は内容を理解する語学力や読解力が要求されるため、より面白さを享受できるようになるまでの障害が多くなる……すなわち難解なゲームになっていくというわけだ。
ゲームの黎明期、『スペースインベーダー』や『パックマン』の時代だとステージ1と2しかなかったものが、『ドラクエ』などのRPGの台頭によりステージ2と3(小さなメダル等も含めればステージ4もだな)の時代へ、『ポケモン』の世代になってステージ4と5といったようにゲームスタイルもプレイヤーも進化してきたのだ。
ちなみに美少女ゲームなどは、この論理ではステージ3、4に該当する。

さて、ここまで読んで気が付いた方もいらっしゃると思うが、ステージが上がっていくということは同時にゲームの面白さを伝えにくいタイプのゲームということが言える。気軽に遊べる小粒なヒットタイトルは、実はどれもステージ1、2の要素をほぼ間違いなく持ち合わせていることがおわかりだろう。最近のゲームがわかりにくく、とっつきにくくなっている原因の一つがここにあることは間違いないと私は思う。


最初のとっつきやすさの演出は可能か?

このようなことを書くと、「いまどきのゲームのほとんどはパッと見で面白さが判別できないじゃないか」「高い金を出してゲームを買うにはリスクが高い」という言葉が出るのも至極もっともだと思う。が、絶対可能とは言わないにせよ、最初の取っ付きをよくする工夫をしているメーカーは数多く存在する。その最たる例がアーケードゲームメーカーである。
アーケードゲームは、家庭用と違い100円で「ちょっとやってみるか」が容易に出来る営業形態だ。逆に言えば、つまらなかったら最初の100円だけで二度とお金を使ってはくれないシビアな世界でもある。それゆえに、アーケードゲームでは家庭用では思いも至らない配慮が盛り込まれているわけで、アーケードゲームも開発している会社の作る家庭用ゲームソフトは比較的安心して遊べるのもそのためである。
例えば、アーケードゲームでは概ねファーストプレイは2〜3分程度で終わるように難易度を調節している。その中でまたもう一度遊んでもらうために、最大限楽しませるための工夫が随所に凝らされているのだ。最初のステージのグラフィックや演出にはリキを入れるし、BGMだって印象に残りやすいものを用意する。アーケードゲームメーカーならではのノウハウと言えるだろう。


最初の印象を良くするノウハウはアーケードゲームメーカーに学べ! これが私の持論だ。


家庭用ゲーム、美少女ゲームはだまし売りか

家庭用ゲームや美少女ゲームは、雑誌記事や店頭告知程度ではゲームの全容がつかめないため、必然的にだまし売りの様相が少なからずあるのが事実である。そもそも、「こんなに凄いシナリオなんです」「こんな感動を約束します」なんて声高々に言ったところで、ゲームを全部遊んだ人間でなけりゃわかりっこない。これは映画など映像作品についても言える話ではあるが、発売前の告知やプロモーションで如何にハッタリをかますかが重要になってくる。逆に言えば、内容がないクソゲーでもプロモーション段階でハッタリかますことさえできれば売れてしまうのだ。
さんざクソゲーを掴まされた御仁はそれを理由にコピーやP2Pを肯定しようとするかもしれないが、それはお門違いと言うものである。パッケージやプロモーションで、10の商品を20,30に見せて売るのは「常套手段」である。さっきも例に挙げた映画などの映像作品は言うに及ばず、家でもクルマでも家電でも。それこそカップラーメンのパッケージに印刷された美味しそうな「盛り付け例」だってそうだ。数多ある商品の中から買うものを選ぶのはお客自身だし、そんなに事前告知だけで買うのが怖いのならば、発売後の評判をネットで情報収集してから買えばよろしい。今の世ならば批評サイトはいくらでもあるのだから情報を集めるのはさほど難しくはないはずだしね。

ゲームなんて所詮は余暇に楽しむものだし、ユーザーがゲームに費やす時間も減っているという統計がある。その証拠に、市場で確実にゲームが売れなくなってきているし、だまし売りをしてきたメーカーはこれからが正念場かもしれないぞ!?